僕の故郷・熊本の川辺川(かわべがわ)ダムから思う事…
●更新2003/01/11(ほんの少し書き足し)
「五木村公式ホームページ」
●「五木の子守唄」の里が沈む !?
↑正調・五木の子守唄が聴けます。
五木の子守唄をご存知ですか?
その五木村がダムに沈むかもしれません。

僕は熊本市出身で、市内の人達と 「どうにか止められないものかなぁ」と話したりするのですが、
「ここ(熊本市)の問題ではないから口出しするものでもないよ」と言う人が実は多いのです。
僕に至ってはその熊本を離れてしまっています。
「そんなやつが口出しするな!」と言う声もあります。
しかし、川は、自然は誰のものなのでしょう?
そこに住んでいない人には何も言えないのでしょうか?

「音楽は僕のものではない。君のものでもない。みんなのものだ」

ロサンゼルスのパーカッショニスト、ラルフ・マクドナルドがそう言っていました。
この極めてシンプルな言葉に出会ったとき、はっとしました。
「みんなの物なんだから僕のものでしょう?」
と考えがちなんですね。
それを「みんなの物であって誰のものでもない」という風に考えられるでしょうか?
この違いをお子さんに説明する場面を想像してみると、
返って子供のほうが理解できるかもしれませんが、とても難しいですよね。

この言葉に、とても普遍的なものを感じるのです。
「よそ者は口出しするな!」とは、ナンセンスとしか思えません。
●反対しているのではありません。考えて欲しいのです。
ですが、調べてみれば、実情はとても複雑です。
何にも知らずに軽々しく「反対!」と言うのはそこに住んでいる人達にはやはり失礼なのです。
現実に勝手なことばかりを言って掻き回すだけの「よそ者」も沢山いるのです。
しかしその「自然がなくなるのはイヤだ!」という気持ちを無視はできない…。

「たかが虫ケラ」一種が絶滅するだけでも生態系が変わることが分かっている現代において、
ダムが、空気を浄化してくれる樹木を奪い、沢山の生き物の棲家を奪い、
それが生み出すもの(行政側の主張)は
巨額といえども一時の経済の潤いと、地域住民の水害の心配のない生活(?)…。
この天秤はつりあうのか?

僕は声高に「ダム反対!」を唱えているのではありません。
もしダムが完成し、自然が壊れたとしても、
その後に生まれる人たちには最初から自然は無かった物として、
ダムのある風景の中で「それが当たり前」として生きていくでしょう。

小学生の時、見学旅行でよそのダムを見に行き、
「スゲー! でっけぇ〜!」とはしゃいだ覚えがあります。
今あるダムを容認しているのは、
それが出来る事を、子供だった僕らは知らなかったからではないでしょうか?
ひとつの森がなくなる事が地球規模でどんな影響を及ぼすのかを、
時代が知らなかったからではないでしょうか?
どちらにも言えるのは、「なくす物の大きさを知らなかった」という事でしょう。

問題なのは、全国の沢山の人達がそれを知らない内にダムが出来てしまうこと。
知らされないのではありません。このことは新聞やTVで沢山報道されています。
ですが、これを読むまで知らなかった(関心を持たなかった)方は沢山いらっしゃると思います。

国が何もしないからでしょうか? マスコミが偏った報道をするからでしょうか?
どちらも違うと思います。
僕たち一人一人が何も考えていないのではないでしょうか?

有明海・諫早の堰が出来る事を、ニュースがあの映像を流す前に知ってましたか?
長良川の河口堰が作られる事を知ってましたか?

「失われる自然」は沈む部分だけではなく、そこから「壊れ始め」てしまうのです。
あの大自然が失われる事を、少しでも多くの人に知ってほしいのです。考えてほしいのです。
それに賛成する・しない、止める・止めないは個々人の自由ですが、
知らなければ何も出来ない。「気持ちを動かすこと」すら出来ないのです。
●理想を語って何が悪い !!
僕は山に囲まれて育ちました。
「山に育てられた」といっても過言ではないでしょう。
山は「教材」でいっぱい、教科書そのものでした。
きっと海も川もそうでしょう。
そんな僕には、「遊ぶ山も海も川もない未来なんて想像がつかない」のです。
僕に想像力があれば解決するのでしょうか?

子供たちは、親の監視下を逃れ、意味も無い事にも意味を見つけ、
野っ原を走り回り、木に登り、石を投げ、川に飛び込み、少しでも遠くまで泳いだ。
当然ケガもして、「バレたらかぁちゃんに『あんな所行くな!』って叱られる!」と、
「秘密の遊び場」を守るために、仲間同士で必死に隠して手当ての仕方を覚えた(結局バレますが…)。
体力ひとつをとっても、そのマネゴトの為にお稽古事に通う現代っ子との差は言うまでもないでしょう。

そこには「自立・自発」がありました。

都会人には羨ましくてたまらない「遊び場」が、まだ現実に沢山残っているのです。
いまの都会っ子を見て、「自然の遊び場がなくたって大丈夫!」と言えるでしょうか?

僕などが「人間とは…」なんて口幅ったいのですが、
やっぱり人間って愚かなんですね(もちろん僕もその一人…)。
自省してみると、「愚かさ」を自覚しないと「調子に乗る」と思いませんか?
「愚かさ」を自覚するからこそ、「理想を語る」のです。「語るべき」なのです。
●最後に…
昔の話でしょうが、インディアンは村で何かを決定するとき、
七世代先の子供の姿に想いを馳せて決めるそうです。
想像もつきませんが、見習いたい話です。

僕に出来ること。何の力にもならないかもしれませんが、
ここに書き込むことから始めました。
これが皆さんにとって、「考えるきっかけ」となることを期待します。
一人でも多くの人に考えてもらえたら幸いです。

まとまりの無い長い文を最後まで読んでいただいてありがとうございました。

                                      馬場
●清流・川辺川を守る県民の会
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